日独融合型薬局 | メイン

2012年07月09日

●シーボルトとアジサイ(吉岡ゆうこ)

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*ハイデルベルクで、ゲーテが歩いたという哲学の道を散歩中にみつけたアジサイ

2012年6月ドイツ薬学視察旅行に行って来ましたが、ちょうど6月はアジサイの時期。ドイツで花咲くアジサイをたくさん見てきました。このアジサイはドイツ人医師シーボルトが、愛する人の名前から「オタクサ」と学名をつけ、ヨーロッパに紹介しました。今ではドイツに限らずヨーロッパ各地で赤や紫の綺麗な花を咲かせ、町の風景に彩りを添えています。長崎では2012年5月26日(土)~6月17日(日)の期間、「ながさき紫陽花祭り」が開催されています。シーボルトの鳴滝塾跡に建つシーボルト像のところにもアジサイがいっぱいです。特に長崎の観光名所である眼鏡橋のある中島川公園には、アジサイの種類もいっぱいで、観光客の目を楽しませてくれます。ドイツに行くにつけ、長崎とドイツやヨーロッパとのつながりを肌で感じます。シーボルト先生ありがとうと感謝です。

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*長崎シーボルト宅跡、シーボルト像を取り囲むアジサイ

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*長崎の観光名所、眼鏡橋のアジサイ

2007年03月25日

●岐阜●伊吹山での"薬狩り" (城戸まゆみ)

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*伊吹山の麓にある天下分け目の合戦「関ヶ原古戦場跡地」

若葉薫る5月です。“薬狩り”と称して、薬草の山として名高い“伊吹山”に登ってきました。
『日本書紀』の記録によれば、日本で最初に行われた“薬狩り”は西暦611年5月5日、今から1400年も前のこと。推古天皇が百官を率いて大和の莵野田で薬草を採取したのが事始めだそうです。
さて、自然の野山から人を癒す薬草を採取する、そんな薬剤師としての自然観察眼を磨くための今回の“伊吹山”登山。古来より薬草が豊富だったこの山に、さらに織田信長がポルトガルの宣教師に命じて欧州産の薬草を移植させたことで、日本一、薬草の種類が豊富な山として知られています。数々の植物園や薬草園を観察し、多少は薬草を観る眼が養われたと思っていたのですが、一つ一つ植物名が表示してある薬草園とは違い、まだ芽吹いたばかりで花もないたくさんの植物の中から薬草を見極めるのはそう簡単にはいかないようです。まずは、山頂まで登ってみることにしました。道々、花を咲かせている植物の名前を植物図鑑で調べながら歩いていくと、薬草ではありませんが、二輪草、山猫の目草、延齢草・・、今まで名前もわからなかった草花に興味がわいてきます。登りつめた薬草の山の頂上は、“薬草といえば深山幽谷”のイメージを壊し、気持ちのよい広い野原。山のすぐ麓に琵琶湖を望めます。おみやげ店で買った伊吹ヨモギの草餅が美味しかったので、帰りは“ヨモギ狩り”をすることに。ヨモギなら葉っぱだけでも分かります。3合目あたりにくるとたくさんのヨモギが若芽を出していました。ヨモギの名前の由来は、四方に根茎を伸ばして広がる「四方草」という説や良く燃えるから「善燃草」という説があります。葉の裏の白い「綿毛」を集めるとお灸に使う「艾(もぐさ)」になります。高級な艾ほど葉が混じらず、白い綿毛だけです。漢方では艾に葉がついて艾葉(がいよう)と呼びます。艾葉は体を暖めて下腹部の痛みや出血過多などを治すので婦人科系でよく用いられます。
伊吹の薬草はこれからが旬。6月には当帰が白い花を咲かせ、7月にはオトギリソウの鮮やかな黄色い花が見られることでしょう。薬(ヤク)に語呂を合わせた毎年8月9日には、伊吹山周辺の市町村長による薬草サミットが開かれ、同時に薬草についてのたくさんの講演やシンポジウムがあります。まだまだ、薬草修業は続きます。
(2006年5月取材)

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*伊吹山の頂上にある日本武尊の石像日本武尊が荒神を退治に伊吹山に登ったところ、その化身の大蛇の毒に当てられ健康を害したという伝説がある日本武尊の病状から大蛇の毒はトリカブトの毒だったと云えられている

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*本州のほぼ中央部に位置する伊吹山は全山石灰岩からなる山。伊吹山は地理や地質、気象条件で太平洋気候による暖地系植物、日本海気候の寒地・積雪型植物などの分岐点となっておりこの山に薬草が多い理由となっている

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*百人一首“かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方)”ここでいう「さしも草」とはもぐさのことで、中山道沿いでは伊吹もぐさが売られ、その名は全国的にひろまった

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*トリカブト? 花の咲く時期が違う・・・
たくさんの植物の中から目当ての薬草かどうかを見分けるのはむずかしい。見た目はよく似た毒草もあるので図鑑は写真だけでなく解説を必ず読む。

2007年03月24日

●長崎●ネオボラと長崎を歩いて(城戸まゆみ)

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*シーボルト記念館の庭園にあるシーボルト胸像

鎖国時代、そして開国後の明治初期まで、海外の様々な文化は長崎を通じて日本に持ち込まれました。長崎にはその頃の史跡が街中に残っています。近代医学、薬学もまたドイツ長崎日本のルートを経て現在に至っています。第1回ドイツ視察旅行の前に、ドイツにつながる長崎の歴史や文化を体験してみようということが今回のネオボラ長崎合宿の目的の一つでした。日本最西端のJRの駅、長崎に参加者全員集合。長崎市街の中心部、「浜の町」にて昼食タイム。茶碗蒸しと蒸し寿司のセット、「夫婦蒸し」を食べ、長崎試食旅行・・・いいえ、長崎視察旅行がスタートしました。

鎖国時代、唯一の海外との窓口であった長崎には、西洋の新しい文化が持ち込まれました。ビリヤード、望遠鏡、アスファルト道路、聴診器。長崎出島のオランダ商館を通じて、日本に伝わったものはあげだすときりがありません。日本初「処方せん」は、西洋医学を長崎の地で伝えたシーボルトが書いたものといわれます。最初の視察は鳴滝町にあるシーボルト記念館。この日本最古の処方せんを見て、「医師シーボルトの処方意図」を理解することができるだろうかと、挑戦的に目的地に向かっている途中、「ここが私の生まれた家」との、吉岡所長の声。 所長曰く、幼い頃には、シーボルトが多くの弟子を育てた「鳴滝塾」の跡地で遊んでいたそう。その後は所長の生い立ちも同時に辿りながらの楽しい散策となりました。

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*目にも鮮やかな洋館造りのシーボルト記念館

シーボルト記念館には、前述した日本初「処方せん」のほか、シーボルトの薬箱も展示、そして鳴滝塾門下生の系図がありました。系図は日本全体に広がり、現在の医療者である私たちはその末端にいるのかも(!?)、ネオフィストのスコレ塾門下生やネオボラが活躍してこんな系図ができたらいいな、などと楽しく想像しながら館内を見学しました。当時長崎への留学を許可されるのは、藩の中で選ばれた限られた人のみでした。出島資料館では、西洋の新しい知識や技術に驚き、目を輝かせている日本人の様子が紹介されています。
観光地として有名なグラバー園は、開国以後、明治時代の西洋人の夢の跡地です。日本でビジネスチャンスを求めてこの地にきた人々の魂が残っている場所です。ここから長崎港を見た景色は空も山も海も見下ろした気分になれるものです。鎖国時代の西欧文化の入り口は「出島」でしたが、開国後は、この外人居留地が「日本初モノ」渡来地に。
西洋からは食文化も伝わり、長崎卓袱料理が誕生します。坂本龍馬の刀傷が残る料亭『花月』で卓袱料理をゆっくり味わいながら、当時の長崎留学生たちのように、海外と日本との関係を考えていく時間を持ちました。そして、今回のネオボラ合宿の開催地を長崎にしたもう一つの理由につながります。昨年はイラク情勢を始め、平和への不安がよぎり、また台風、中越地震など天災も多い1年でした。そこで、原爆の被災地である長崎を見ることで、参加する薬学生とともに、今、必要な何かを感じたいと思ったからです。

長崎原爆資料館が最後の視察地でした。忘れてはいけない過去がそこにはありました。あらゆる文化を取り入れ、今も街並みをどんどん変化させていく長崎。それとは対照的に60年前の原爆投下の時から、苦しみが今も変わらず続いている被爆者。今回参加の2名のネオボラさんは被爆者の想いのこもった手記をじっくりと読んでいました。資料館をでるときのお二人は、何だか凛とした表情になっていました。心から世界の平和を祈り、長崎視察旅行を終えました。
(2005年12月取材)

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*出島跡地にある1/15スケールのミニチュア「ミニ出島」

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*シーボルトは出島のこの場所に薬草園を作った