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2007年03月24日

●長崎●ネオボラと長崎を歩いて(城戸まゆみ)

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*シーボルト記念館の庭園にあるシーボルト胸像

鎖国時代、そして開国後の明治初期まで、海外の様々な文化は長崎を通じて日本に持ち込まれました。長崎にはその頃の史跡が街中に残っています。近代医学、薬学もまたドイツ長崎日本のルートを経て現在に至っています。第1回ドイツ視察旅行の前に、ドイツにつながる長崎の歴史や文化を体験してみようということが今回のネオボラ長崎合宿の目的の一つでした。日本最西端のJRの駅、長崎に参加者全員集合。長崎市街の中心部、「浜の町」にて昼食タイム。茶碗蒸しと蒸し寿司のセット、「夫婦蒸し」を食べ、長崎試食旅行・・・いいえ、長崎視察旅行がスタートしました。

鎖国時代、唯一の海外との窓口であった長崎には、西洋の新しい文化が持ち込まれました。ビリヤード、望遠鏡、アスファルト道路、聴診器。長崎出島のオランダ商館を通じて、日本に伝わったものはあげだすときりがありません。日本初「処方せん」は、西洋医学を長崎の地で伝えたシーボルトが書いたものといわれます。最初の視察は鳴滝町にあるシーボルト記念館。この日本最古の処方せんを見て、「医師シーボルトの処方意図」を理解することができるだろうかと、挑戦的に目的地に向かっている途中、「ここが私の生まれた家」との、吉岡所長の声。 所長曰く、幼い頃には、シーボルトが多くの弟子を育てた「鳴滝塾」の跡地で遊んでいたそう。その後は所長の生い立ちも同時に辿りながらの楽しい散策となりました。

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*目にも鮮やかな洋館造りのシーボルト記念館

シーボルト記念館には、前述した日本初「処方せん」のほか、シーボルトの薬箱も展示、そして鳴滝塾門下生の系図がありました。系図は日本全体に広がり、現在の医療者である私たちはその末端にいるのかも(!?)、ネオフィストのスコレ塾門下生やネオボラが活躍してこんな系図ができたらいいな、などと楽しく想像しながら館内を見学しました。当時長崎への留学を許可されるのは、藩の中で選ばれた限られた人のみでした。出島資料館では、西洋の新しい知識や技術に驚き、目を輝かせている日本人の様子が紹介されています。
観光地として有名なグラバー園は、開国以後、明治時代の西洋人の夢の跡地です。日本でビジネスチャンスを求めてこの地にきた人々の魂が残っている場所です。ここから長崎港を見た景色は空も山も海も見下ろした気分になれるものです。鎖国時代の西欧文化の入り口は「出島」でしたが、開国後は、この外人居留地が「日本初モノ」渡来地に。
西洋からは食文化も伝わり、長崎卓袱料理が誕生します。坂本龍馬の刀傷が残る料亭『花月』で卓袱料理をゆっくり味わいながら、当時の長崎留学生たちのように、海外と日本との関係を考えていく時間を持ちました。そして、今回のネオボラ合宿の開催地を長崎にしたもう一つの理由につながります。昨年はイラク情勢を始め、平和への不安がよぎり、また台風、中越地震など天災も多い1年でした。そこで、原爆の被災地である長崎を見ることで、参加する薬学生とともに、今、必要な何かを感じたいと思ったからです。

長崎原爆資料館が最後の視察地でした。忘れてはいけない過去がそこにはありました。あらゆる文化を取り入れ、今も街並みをどんどん変化させていく長崎。それとは対照的に60年前の原爆投下の時から、苦しみが今も変わらず続いている被爆者。今回参加の2名のネオボラさんは被爆者の想いのこもった手記をじっくりと読んでいました。資料館をでるときのお二人は、何だか凛とした表情になっていました。心から世界の平和を祈り、長崎視察旅行を終えました。
(2005年12月取材)

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*出島跡地にある1/15スケールのミニチュア「ミニ出島」

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*シーボルトは出島のこの場所に薬草園を作った